昭和50年02月15日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心は容易いものぢゃが、皆氏子から難しうする。三年五年の信心ではまだ迷い易い。十年の信心が続いたら我ながら喜んで我が心を祀れ。日は年月の始めぢゃによって、その日その日のおかげを受けて行けば立行かうが、容易う信心をするがよいぞ。」
 
 大変に難しいそれこそ御理解ですね。信心は容易ものぢゃがと。本当に容易いとは思われない。けれども本気で信心をさせて貰う、信心の稽古をさせて貰う。しかもその焦点が間違のいない有難くならせて頂く為にと言う様な焦点。信心は日に日に有難うなって行く稽古だと、と言う所に焦点を置いて参りますと、確かに信心が楽しゅうなって来る。確かに信心が有難いものになって来る。それが成程三年五年十年と続いたら、愈々我心を祀れと仰る様な心が、開けて来ると思うですね。
 それは信心は難しいもんじゃないですよと。別に忙しかったっちゃ参らにゃならんとか、お供えばしなけばならないとか、そう言う様な事ではないのですから、ま容易う楽しゅう信心をするが良いと。昨日常持からお参りなさった方がありました。親子三人で日田の竹野さんの御親戚に当たる方ですから、もうそれこそお父さんが言うとられましたけれども、一切の物には恵まれておりますけれども子供が弱い。光昭と友達とそうでですから二十五才になる。
 それがまぁ何とも言い様のない様な難儀な病気、その上に昌一郎さんが患った結核性の腎臓とかで。それでそのまあお導きを受けて参られたんですけれども、常持と言う所はすぐ其処の村ですけども、一人も信者がないのです。あなた方が一つおかげを受けて、本当な信心をまぁ隣近所にでも、拡めて頂きたいと言うて話した事でした。常持ちと言う所はね、あのう椛目のお不動様にお参りが多かったです。あちらのお婆ちゃんが亡くなられましたから、最近ではあのう日田の高塚さんに沢山お参りがあるそうです。
 だからそう言う信心なら確かに容易いですけれど、なら金光様の御信心も、そう言う様な、始めは頂き方であれば容易いです。日参り夜参りせんならん事はない。何かお尋ね事どんある時に、お不動さんにお伺いをして貰うと言った様な信心。だから教祖様はそう言う様な意味合いでも、容易いと言う事を言っておられながら、そして段々教えを説かれて、その信心の本当の所へ導いてお出られたと言う感じが致します。
 高塚さんでもやっぱりそう第一あそこはもうそのお供えが要らん、自分のよかごとでよか、別に祷人さんが御座る訳ではない。そりゃ自分が一生懸命参ってお金が掛からんと言うけれどもやっぱり相当掛かる事は掛かるらしい。ね。是から日田のずっと奥までバスで行っただけでも、随分お金が掛かるでしょうしと言うてやっぱりお賽銭も要るでしょうし、帰りにはうどんの一杯も食べて来よるとまあそれが楽しいと言うのなら、何んだけれども矢張り楽しゅうお金は使こうても、お金は要らんと言う様なところがあります。
 だからね、なら此のおかげとお供え物は付き物ではないと言われる位ですから、お供えをしなければ拝んでは上げません、取次いでやりませんと言うのですから、金光様もそう言う意味で、教祖は容易いと言う風に言われたのかも解らん。そしてだんだん本当の事へ、導いておい出られたのかも知れない。だから三年五年の信心では迷い易いとおっしゃったのでしょう。三年五年の信心が十年も続いて来る頃には、お道の信心も解らせて貰うてその教えを行ずる。
 又は愈々一年一年有難うなって行くのが信心と仰せられる様に、一年一年有難うなって行くのですから、参らにゃおられん修行もさして貰わねば居られないと言う事になってです、段々信心が所謂容易いもの、然も自分で自分の心を拝めれる様な所迄高めて行く。兎に角初めから容易い容易いで、段々難かしうなって行った頃には、難かしい事が又容易いと言う事に、まあー導かれたのであろうと思うのです。ね。
 まあーだから此の御教えは大変難しい。容易いとは思われない。容易いと仰せられるけれど容易いとは思われない。ですから今言う様にその高塚さんにお参りする、お不動様にでもお参りする、お伺いに参る位の信心なら是は容易いですね。だからそう言う事もやっぱ含まれてあると思うのです。しかも高塚さんなんかはそのー何ですか、あちらのそのキャッチフレーズが素晴らしい、人間の願い事一つだけなら何でも叶えてやる、と言うのがまあー高塚さんのお参りのある所以らしいです。
 誰でも願い事を持たん者は居りませんからね。なら是いっちょと言うて、果たしてそれがおかげが受けられるかと言うと、ならそうでもない。先日吉井の熊谷さんが話になってましたけども、やっぱあの娘婿さんお医者さんのお友達で、もうようやく医大を出てお医者さんになられて、そのそれこそ一つだけ念願が叶うた訳です。それでお礼参りをされた。そして帰りに交通事故に遭われて即死だったと言う事。
 それは信心しておってもねそう言う事が起こったからと言うてどうこうではないけれどもです、そう言う事に触れるともう言うなら高塚さん的な信心であったり、又今日いま言う容易い信心はもうそれだけで続きませんですね。けれどもそれから先の信心言うならば信心が解って行く、私は金光様の御信心をさして頂いておっても何十年信心しておっても、その有難いと言う心を開いて行こうとしない信心は矢張り難しいです。
 信心とは一年一年有難うなって行くと仰せられる、その一年一年有難うなって行って、それこそ十年も続いたら我ながら我が心が祀れれる、様な信心でなければ、信心は愈々難かしい事になって行く。だから私は問題はです、その日その日のおかげを受けて行けばと仰っとる。だから此処の所をね身に付けて行かねばいけないと思う。その日その日の例えばおかげと言う物をです、信心しよるからもう兎に角、分限者になったもう本当に夢の様な繁昌のおかげを頂く様になった。
 と言う様にね高い所におかげを置いておくのではなくて、もうその日その日が立行く事だけの中にです、はぁ神様の働きの間違いない事と、解らして頂く信心が付いたら良いです。私共が修行中の、例えば私共の事を思わして頂く時に、今から考えて見ると大変な所だったけれども、その日その日が立行くと言う事だけが、有難うして堪らんじゃった。もうお父さん今夜頂いてしもうたから、明日は食べる物がないですよと、家内が私に言わばお届けに参ります。
 しかしもう今日例えばお粥さんでも頂き終えたのだから、今日一日は頂いて終ったんだらさあ今日は頂いた事だけでも、しっかり一家中でお礼を申し上げねばなあと言うのです。今日頂いておるおかげと言う物をおかげと実感出来ないとさあ明日はどうなるだろうか、明日は一家中の者が干乾しにならんなんと言う様な不安と言うものが起こって来る。さあ今日一寸でも隣近から米でも借っとこうかと言う事に成って来るのです。けれどもその日その日が、確かに間違いなくおかげを下さる事が確信出来て来た。
 そこで今日頂けたと言う事だけを、お礼申し上げればいいぞ、明日は明日の風が吹くと言う行き方。その日その日が立行けばと言うのは、ギリギリの所そう言う場合であっても、有難い以外は何んにもないです。言うならその日暮らしが出来ると言う事は、素晴らしい事なんです。ね。それが素晴らしいと言う事が、解って来る様に成るとです、なら同じその日暮らしも、百円のその日暮らしもありゃ、千円のその日暮らしが出来る様になり、万円でのその日暮らしが出来る様になるのか。
 一年一年有難うなって来ると言う信心だから、そう言うおかげが受けられる。だから結局信心とは、有難くならせて頂く稽古だと言う所に焦点を置かれなければいけません。是ば頼まんなん、是ば願わんならん、是はいっちょどうでんこうでんおかげば頂かして貰わんならんから、と言う事だけであるならば、高塚の地蔵さんともうあんまり変わらない。五十歩百歩である。只お伺いの為だけであるならば、お不動様と祷人さんのおられるお稲荷様でもよかれば、お不動様でもいい訳である。
 けれどもそう言う所から矢張り入り口なんですから、そう言う言うならば信心は容易い物だと言う風にも頂きます。けれどもお道の信心は必ず神が物言うて聞かせると言う言わば、御理解がある御教えがある。願いに来た者に対するお取次ぎの働きと言うものを受けて帰らなければならない。にも関わらず一生金光様の信心しとるけれども、有難う只一生懸命辛抱しとったと言うだけで信心が続いておったと言うだけで、有難いと言う物が開けて来ないならば、矢張り信心は難しい物で終わってしまうだろう。
 中々信心ちゃ出来けん、もう兎に角朝早起きして、朝参りをする事が楽しうして堪えん事ならなければ駄目です。だからそう言う心が開けずして、おかげを頂いておるのは本当につまらんです。おかげを頂いたらおかげの上に胡坐をかいてしまう。信心は有難うなってないから、楽しい物になってないから、所謂信心はただ難しい物だけに終わっておるから。あのおかげを頂かんならん時には、それこそもう水を被ったり、それこそ色んな断食をしたりしておかげを頂いた。
 おかげを頂いた時には、もうおかげを頂いたで、信心が有難い物になってない、ほんなおかげを頂いた事だけである。言うなら表行的な信心から生まれて来るおかげでは、有難うなれないと言う事。そん時だけは何んか知らんけども、一つの妙境の様な物がが開けん事もないね。水でも被って一生懸命拝みよると、何とはなしに信心が好きになて来るのです。けどもそう言う事では愈々つまらん。
 教えを頂いてその教えを行ずるところからです。しかも私はその日その日のおかげを受けて行けばと言う、その日その日のおかげを受けておると言う事。また受けられると言う確信と、そう言う一つのおかげを受けて行くと言う事にもう心からのです、有り難いと言うものが感じられる信心。それを何時まで経っても、何時まで経っても、おかげを頂ききらんとか、いただき足らんごと思うておる様な信心では、何時まで経っても信心が難かしい物であります。
 その日その日の御教えを頂くと言う事が、楽しゅうして堪らんその楽しく頂いた、有難く頂いた御教えがその日一日の支えになる。そう言う行き方を身に付けて行くならばです、もう絶対有難くなるまいと思うても、有難うとなって来るのです。有難うなって来るのですから、朝も早起きも出来る様になり、お参りも楽しゅう有難う出来る様になる。御用もさして貰わねば居れないと言う事になる。そう言う信心がです、十年も続いたら、確かに我ながら我心を祀れと仰る、心も開けて来るのです。
 ですからねまあ言うならその信心が容易と言うか、願いごとがある時一心を掛けてお参りすると言う様な、そのお参りの時にそう言うお参りの時にです、只おかげだけが目的ではなくてです、その時頂く為ならその火の行、水の行もいとわんち言う位な熱烈な信心をしましてもです、もうそう言うおかげは絶対おかげを頂いたら、おかげの上にあぐらをかくです。是は十人が十人。
 けれどもその日その日の立行くと言う事の有り難さが、いよいよ身に沁んで来るならです、とてもとてもお日参りせねばおられんのであり、朝参りをせねば居られんのである。居られんのであるでもそれが楽しゅうなって来るんです、そう言う私は信心をここでは説いてあると思います。その日その日のおかげを受けて立行くと言うおかげ、それを本当に例えばおかげであると言う実感、今日食べるものがあった明日はない、明日の不安はないさらさらない。
 今日までこうしておかげを下さったんだから、明日は又下さる事に間違いないと言う確信がある。そう言う信心を私は言うておられるのだと、言う風に思います。信心の体得と言うものがです出来ている様であって出来てない。自動車の運転を難しいと言う者は一人もない、運転が出来る人だったら。そりゃちょっと難しいですばい、毎日毎日が修行ですよ、と言う事がなかでしょうが、もうそれこそ自分の五体の様に自動車を動かすでしょう。只運転を稽古していない人達には難しい。
 動かす事も出来ません、信心もそう言う風にならにゃいかんです、もう自分の五体の一部なんである。だからなら何を体得すると言うとです、有難くならせて頂くと言う事が勿論信心の目的であると同時にです、その日その日が言わば立行く、おかげを受けると言う事。それをもうそれこそ満腔の喜びを持ってです、もう本当に今日一日お粥さんをすすらせて頂いたと言う事が、有難とうして堪えん、と言う信心にならにゃつまらん。明日の事が不安がないと言う信心にならにゃつまらん。
 あゝ何時までこげんお粥食べとかんならんぢゃろかと、何時までこんな貧乏せんならんじゃろかと言う事ではね、それこそ何時も何時もそれはおかげ頂いても、頂き足らんごと思うです。是では所謂信心は何時まで経っても難しい事になります。だから先ず運転の稽古をして、運転をしなければいけない様に。先ず信心の稽古をです、有難いと言う言わば答えの出て来る日々が、そう言う所に焦点をおいての信心の稽古ならばです、必ずその日その日の立行くおかげになって来る。
 そこの絶対性と言うか絶対信と言うものが生まれて来る。しかもその信が段々大きくなって来る。従っておかげもそれに伴うて来る。例えばその日暮らしでも百円のその日暮らしから、千円のその日暮らしと言う様にです、豊かなその日暮らしが出来て来る様になる。成程貯めとく事はいらんたいと言う様な心さえするごとになると、もう貯めまいと思うても貯って来る。
 自分の計算ばっかりで是で幾ら儲けたら幾ら貯めんならん、さあ一億円になったけんで、もうええかと思うと二億円にしようごとある。二億円になると三億円にしようごとある。それではね、何時まで経ってもおかげの頂き足らん様な思いがあるのです。それこそ、神様がね、貯めようと思わんけれども貯って来ると言う様なおかげを頂く為に、信心はどうでも、見やすい物と言う所の意味が。
 一つ解らして貰わなければ、何時まで経っても、我心が祀れれる事にもならなければ、本当の意味に於いての、人より一年遅れて分限者になれと仰る、その分限者の徳も受けられない事になります。先ず今月今日、その日その日がです、立行くと言っておる、その立行っておる事に対する、心からのお礼が言えれる様な、一つおかげが頂きたいですね。
   どうぞ。
 今日のその所をですね、此処ん所を頂きましたら、こう言う所を頂いたんです、我がものと思う所が難儀の元、一切の不幸は、自分の都合を中心に据えた行き方に依るとあります。我が物と思うのが難儀の元とね。